トレッキング3日目(ラマホテル〜シャブル・ベンシ)      2004年1月1日(木)

ラマホテル〜シャブル・ベンシ
2004年最初の朝が来た。「A Happy new year!」とポーター達が起こしに来てくれた(^。^)。こんな朝もあと1回だけだ。寂しいなあ。

マホテルからは再び、川沿いの道を歩く。樹林の中の道は日本の登山道にそっくりで、遠くに見える峠がまるで雲取山の石尾根みたい。川は相変わらず流量がすさまじく、いかにも冷たそう。ネパールでは沢登りなんてとてもできないなぁ。

中、斜面がすごく崩壊しているところを横目に歩く。じいじに、「この崩壊で川がせき止められることがないのか」と聞くと、そういうこともあるかもしれないし、その場合、下流の村はとんでもない被害を受ける可能性もあると答えが返ってきた。そのような天災もなく、この平和なランタン谷の村々がいつまでもそのままの姿をとどめてほしいと切に願う。

ワが先頭を歩き、リンジンが途中に入り、後ろのほうをパッサンたちが歩き、ポーターたちが大きな青いバッグを背負いながら前を歩いた。みんなで歩くのは今日で最後だなぁ。後ろで時折、パッサンたちがふざけて奇声をあげるのが面白く、私もはしゃいでしまう。ダワの鼻歌に耳を傾けながら歩く。は〜〜〜ぁ、寂しい〜〜。

中、パラソルなんかがある庭を持った茶店に到着。可愛い兄弟が追いかけっこをして遊んでる。ここまでで出会った子供達はそれはそれで可愛いのだけれど、お菓子やお金を欲しがることが多く、距離感を持って接する必要があった。けれども、このライラ、ロプソン兄弟は純粋に私達との鬼ごっこを楽しんでくれ、好奇心だけで写真に喜んで写ってくれた。ロプソンはしきりに鬼ごっこをせびり、家の中に逃げ込んでは私の顔を見て、追いかけてほしそうにする。本当に可愛いので、あとどのくらい歩かなくてはいけないかも考えずにとことん追いかけっこをしてくたびれてしまった。そうしていると、パッサンがライラをつかまえだっこする。ライラは嫌がり泣きべそをかいてしまう。あ〜あ、パッサンってばー!
( -.-)ノ-=≡≡≡卍卍

び、歩きだし、次の集落で今度は昼食になる。ライラのいる茶店でティーを飲んだばかりだったので、それほどお腹もすいていなかったけれど、けっこうな時間待たされてすっかりハラペコになってしまった。同じ場所で昼食の時間を取っていたツアーは、バーナーを持参していたこともあって、早々に昼食を取っていた。それはそれでうらやましかったけど、やっぱり、ぼんやりしながら食事を待つ時間も捨てがたい。猫と遊んだり鶏が足元にまとわりついたりするのに驚きながら待っていると、モモやらスープやらが出てくる。必ず数が少なく出てくるのだけれど、いかにもネパールっぽくて怒る気になれない。

食をすまし、再びシャブル・ベンシを目指す。ヤクのウンコだらけの道を行くと、せっちゃんがとうとう爆弾を踏んでしまう。つちふまずにベットリついてなかなか取れないようだ。うぷっ。ヤクが道をふさいでいると、ダワがカヤトをいつのまにか手にしていて、慣れた手つきでヤクを追いながら歩いて行く。やがて谷が開け大きな橋を渡ると、シャブルベンシの町に到着。ヤギがたくさん走ってくるところを写真に取っていたら子供が寄ってきた。彼らの写真をとり、デジカメの液晶画面を見せると喜んで何か言っている。言葉は全然分からないけど、なんとなくの意思疎通は可能。

トラブル発生!私達、帰れるのかしら
ャブル・ベンシでバンダ(ゼネスト)のため、カトマンドゥに向かう交通機関が全てストップしていることを初めて聞かされる。公共の交通機関だけでなく、自家用車も走れないとかで、私達が翌日乗るはずのジープももちろん走ることが出来ない状況だった。そして、それはいつ解除されるかもわからないのだとか。明日かもしれないし、1週間かかるかもしれない。いずれにせよ、明日にはカトマンドゥに戻らないとその翌日のバンコク行きのフライトに間に合わない。ギリギリの日程で来ている私達には致命的な出来事だった。日本に帰れないかもしれない。けれども、その間、カトマンドゥでお世話になったホテル・サンセットビューのオーナー紘子さんがヘリコプターのチャーターに尽力してくれていた。どうやらカトマンドゥまで往路と同じくヘリで戻れることになりそうだ。金で時間を買うことも時には必要なんだねぇ。

シャブル・ベンシで過ごす夕方
宿も決まりほっとして部屋に入ると、急に自分の臭さが気になり服を着替える。せっちゃんはお金の勘定を始める。ヘリコプターに乗るお金、リンジンたちに支払うお金等もろもろ。日本円、ドル、ルピーの換算もあって難しそうだ。せっちゃんのこうした努力もあって楽しい旅が続けられたんだねぇ。せっちゃん、本当にありがとう。

ルコニーに出て向かい側のホテルを見ると何やら人だかりができていた。ダワに聞くと、葬式をやっているとのこと。始めは、日本の披露宴がホテルでやるように、ネパールの葬式はホテルを借りてやるのかと思いきや、単にホテルの人が亡くなったらしかった。普段着のままの人々がわらわら集っていて、時折読経のような声が聞こえなければ葬式とは分からない。庭におりてみるとダワが「散歩しますか?」と言ってくれる。みんなで町のはずれまで歩いて行く。

いバスが2台停まっている。カトマンドゥまで行くバスなのだろうか。皆は陸路でガタガタ道を揺られながらカトマンドゥまで行くことを嫌がっていたけれど、私はぜひ体験してみたかったなー。そして何よりシェルパやポーターたちとカトマンドゥまで一緒に行きたかった。それはきっと歌を歌いながらの楽しいものになるにちがいないと思っていた。気分が悪くなるかもしれない。ほこりだらけになるかもしれない。体中が痛くなるかもしれない。窓からの隙間風が凍えるほど冷たいかもしれない。それでも私は長い時間皆と一緒にいられることを望んだ。
あーあー。

ランタン・トレッキング最後の晩 〜Shall we dance!!〜
房ではモモ作りが始まっていた。ペーメーがこねて丸めた生地を、ロメスが麺棒でせっせとのばし、丸い型でぬく。それにスプーンで具を乗せるのはパッサン。そして餃子の要領でひだをつけながら包んでいくのはテンジン。男の人がせっせと料理をする姿はけっこう好きだ。ニラ(?)がぺたぺた皮についてしまうのをせっせと取ろうとするテンジンの姿は可愛い。水餃子のようなモモ。醤油はないのでケチャップをつけたり思い思いの味付けをして食べる。お肉が美味しいので私は味付けなしでそのまま食べた。おいしい〜〜〜!!!ロメスに「ミトチャー(おいしい)!ロメス」と言うと照れくさそうにしてる。ニラが皮にたくさんついているモモはテンジンが包んだモモ。それを指差しテンジンをからかう。でも、もちろん「ミトチャー!」と付け加えたけどね。だって本当においしかった。

のあと踊ることも考えお酒は控えようと思ったのに、見慣れない容器に入れられたお酒が回ってきた。三角錐の形をした容器にストローがささっているこの入れ物はトゥンバというらしい。発酵した固形のチャンをこのトゥンバにいれ、湯を注いで飲むのだ。「これを飲めばシェルパになれるよ」といたずらっぽく笑うリンジン。飲んでみると酸味のあるお酒だ。カトマンドゥで飲んだチャンはおとそみたいで、日本酒の味に近く苦手だったけれど、これはおいしいな〜。


てと、いよいよ楽しみにしていた踊りの時間がやってきた。テーブルを端に寄せ、ダンスステージの出来上がり。宿の子から借りたカセットテープを早速流し始める。最初はみんなが踊るのを見ていたけれど、恥ずかしいのでせっちゃんも巻き込むのは忘れずに、恐る恐る私も踊って見る。曲によっては男踊りと女踊りがあるのだとダワが教えてくれる。女踊りは腰をくねらし、いかにも女性らしい。Kumaさんもノリノリで、ロメスと両手をとりあいグルグル回っている。目が回らないのかと思うくらい回転しつづけ、みな驚いて口があんぐりしていた(^。^)


ると、ドンドンと勢いよく扉をノックする音がし、兵隊が中に入ってきた。私は驚き恐くなったけれど、リンジンはある程度の時間になったら彼らがやってくることは計算済みだったようで全然なんてことないさって顔をしている。20時になったら止めることを話すと彼らは帰って行ったのでダンス再会。

度はドルジやヌルブなんかの若い衆も加わる。若い子たちはクラブっぽい今風のダンス。年に1回、リンジンの会社ではダンスパーティーをやっているらしい。日本でいう暑気払いとか忘年会とかその類ので、みな踊るのは基本的に好きみたい。こう考えると日本人ってシャイで生真面目なんだなあと思う。もちろん田舎に行けば事情が違うんだけどね。今日はお正月だけど、数年前に沖永良部島で迎えた、歌って踊った正月を思い出す。なんとなくネパールの音楽と踊りって沖永良部に通じるものがある。


屋に戻ってからも踊りの練習をする。私が踊るとせっちゃんが爆笑する。本人は真剣に踊ってるんだけど、はたから見るとおかしいそうだ。ぐぞぉ。
明るくにぎやかな2004年の幕開けに乾杯!\(^o^)/

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